金壽堂の企業ポリシー

心にひびく「妙音」づくりの探求

 わたくしたちは、幾世代ものあいだ、梵鐘の音に朝を迎え、そして一日の幸福を感謝しながら入相の鐘を聞いてまいりました。また、大聖釈尊は「若し鐘を撞くときのような心がまえでいるならば、すべての醜さにうち勝つであろう」と教えられています。
 このように、日本人は梵鐘の音に親しみながら独特の文化を生み出してきましたが、弊社は七百有余年一子相伝の鋳造法によって、人びとのこころにひびく妙音の梵鐘造りに精進しているもので、その優れた音色はみなさまからも高く称賛されています。


700有余年の伝統技術を次世代まで

 平成25年1月、東日本大震災で被災した岩手県大槌町の江岸寺に納入する梵鐘の火入れ式を2週間後に控えたある日、先代社長の黄地耕造が突然脳梗塞で倒れました。社内は混迷を極めましたが、現場の職人たちは、社長と被災地への思いを胸に、鋳造をやり遂げました。
  先人が築き上げてきた「匠の技」「音」へのこだわりを強みとして、次世代の職人を着実に育てながら昔と変わらない梵鐘づくりも続ける一方で、日本はもとより世界中の人々の日常生活に癒しと潤いを与えられるような「音セラピー」効果のある生活用品も新たに開発し、「音」を通じて皆さんに平和幸せをお届けできるような仕事を末永く続けていきたいと考えております。

 

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金壽堂の沿革

1379(康暦元年)長村鋳物師の祖・道欽が東漸寺(滋賀県愛荘町東円堂)の梵鐘を鋳造
江戸時代現在本社がある地にて梵鐘づくりを創業
1931(大正6年)梵鐘の鋳造技術を活かし、銑鉄鋳物の鋳造も始める
第2次大戦中全国の梵鐘の大半が金属供出される
1949(昭和24年)8月株式会社金壽堂鋳造所と改組
鋳造工場・加工工場として最新様式の設備を増強
昭和30年頃~国民の生活様式の変化などにより鋳物業を廃業する製造所が増える
1976(昭和51年)1月社名を株式会社金壽堂と改称
組織の充実・機械設備の近代化を行う
2016(平成28年)10月 徐 小鏞が代表取締役に就任

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長村鋳物師について

『滋賀文化財教室シリーズNo.170』(1997年11月20日発行,森容子著)をもとに編纂
■「長村鋳物師(おさむらのいもじ)」とは
 滋賀県の東部、湖東平野のほぼ中央に位置する東近江市長(おさ)町は、昔から鋳物師(いもじ)の村としてよく知られ、かつてはほとんどの家が何らかの形で鋳物と関わって暮らしてきました。
 長村以外にも、滋賀県(近江国)には、鋳物に関係する遺跡や地名・伝承が数多くあります。これらは、古代から県内各地に鋳物師がいたことを示しています。

 しかし、工業技術の近代化とともに鋳物師は姿を消し、今では、県内で伝統的鋳造技術を伝えるのは金壽堂ただひとつとなってしまい、梵鐘をつくり続けている伝統鋳物業者は全国でも数軒しか残っていない状況です。
■「長村鋳物師」の歴史

 長村鋳物師の歴史は古く、一番最初にその名前がでてくるのは、滋賀県愛荘町東円堂にある東漸寺(とうぜんじ)の梵鐘です。この梵鐘は、もともと同じ愛荘町の豊満(とよみつ)神社の鐘として作られたもので、「康暦元年(※1379) 鋳師大工長村 道欽(どうきん)」の名が刻まれていることから、少なくとも南北朝時代には長村に鋳物師がいたと考えられています。

 この梵鐘以外に中世の長村鋳物師の活動を記した資料は、今のところ見つかっていませんが、江戸時代になると、たくさんの長村鋳物師の名前が社寺の梵鐘、喚鐘(かんしょう)、鰐口(わにぐち)、古文書にみられるようになります。江戸時代の長村では、梵鐘、祭鉦(まつりかね)、鰐口などの他に、日常で使う鍋釜(なべかま)鋤先(すきさき)なども作っていました。なかでも、長村製の鍋釜は質が良く、「長村鍋(おさむらなべ)」の名で湖東一帯に知られていました。長村鋳物師に歌い継がれている「たたら節」は、長村鋳物師特有のたたら(大型の足踏み式ふいご)を踏むときに歌った歌ですが、その歌詞の中に、

 色は黒ても 長村鍋は 長村鍋は
 白いお米を ままにする


という一節があり、長村鍋が特産品であったことがわかります。

 明治時代になっても、明治13年(1880)に刊行された『滋賀県物産誌』の長村の項には「鍋釜鋳物師」とあり、そのころは梵鐘よりも鍋釜や鋤先の生産が主流だったことがわかります。しかし、昭和の初め頃から、軽くて安いアルミ製品が普及しはじめ、その後の飛躍的な生活様式の変化、農業の機械化などによって、重い鉄鍋や鉄釜、昔の風呂釜、鋤先は需要がなくなり、生産されなくなりました。昭和30年頃を境に、鋳物業を廃業したり工業鋳物に転業する人も多くなり、今では、伝統的な鋳物の技法を伝える鋳物師は、長村はもとより県内でも金壽堂一軒だけとなってしまったのです。
■長村の梵鐘づくり

 日本の梵鐘にとって最大の悲劇は、戦争による供出でした。それ以前にも梵鐘が戦いの巻き添えとなることはありましたが、第2次世界大戦中の金属供出は壊滅的打撃となったのでです。故坪井良平氏の功績などにより、慶長以前の梵鐘は供出から外されることもありましたが、「長村鋳物師」の銘のある梵鐘のほとんどが江戸時代以降のものであったため、供出は免れませんでした。戦争中、滋賀県内から供出された梵鐘は香川県の港に集められ、その数は全国で3番目の量であったことが、坪井氏の著書に記されています。

 昭和4年に刊行された『近江愛知郡誌』に挙げられている各社寺の梵鐘等の記録によると、江戸時代に長村鋳物師が作った梵鐘、喚鐘の類はおよそ70口を数え、その活動圏は、旧彦根藩領を主に愛知郡・神崎郡・蒲生郡であったことがわかります。「御得意」を記した古文書もあり、それぞれの鋳物師ごとに、得意先や販売先はほぼ決まっていたようです。また、「出吹(でぶき)」といって、他所へ出かけていって製品を作ることもよく行われていました。これについては、寛政(1790)の頃の他国への出吹きを禁じた取り決めが残っています。つまり、長村鋳物師は比較的狭い地域を活動の場としながら、梵鐘を作り続けてきたと考えられます。

 前述のように、鉄製品は社会の需要がなくなり注文もなくなりましたが、もともと注文生産品である梵鐘は、注文がなくなるということはありませんでした。しかも皮肉なことに、供出でなくした梵鐘を復活させたいという人々の願いによって戦後梵鐘生産は活気づき、長村鋳物師の伝統的な梵鐘鋳造は継続され、その技法は今日に残ることになったのです。
■長村の梵鐘製造技法
●梵鐘の製造技法について、詳しくはこちらのページをご覧ください。

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