金壽堂の企業ポリシー

心にひびく「妙音」づくりの探求

 わたくしたちは、幾世代ものあいだ、梵鐘の音に朝を迎え、そして一日の幸福を感謝しながら入相の鐘を聞いてまいりました。また、大聖釈尊は「若し鐘を撞くときのような心がまえでいるならば、すべての醜さにうち勝つであろう」と教えられています。
 このように、日本人は梵鐘の音に親しみながら独特の文化を生み出してきましたが、弊社は七百有余年一子相伝の鋳造法によって、人びとのこころにひびく妙音の梵鐘造りに精進しているもので、その優れた音色はみなさまからも高く称賛されています。

(黄地耕造 前社長のメッセージより抜粋)
700有余年の伝統技術を次世代まで

 平成25年1月、東日本大震災で被災した岩手県大槌町の江岸寺に納入する梵鐘の火入れ式を2週間後に控えたある日、前社長の黄地耕造が突然脳梗塞で倒れました。社内は混迷を極めましたが、現場の職人たちは、社長と被災地への思いを胸に、鋳造をやり遂げました。
 あとを託された甥で現社長の黄地浩は、もともと仏像を彫る仏師として生計を立てていましたが、平成22年に耕造から頼まれて金壽堂で鋳造の仕事に携わるようになり、耕造と一緒に仕事をしたのはわずか2年余り。自身の経験不足や周囲からの心配の声もあり、悩みに悩んだ末、「700有余年という長村鋳物師の伝統を絶やしたくない」という一心で、会社の「継続」を決意しました。

 先人が築き上げてきた「匠の技」「音」へのこだわりを強みとして、次世代の職人を着実に育てながら昔と変わらない梵鐘づくりも続ける一方で、日本はもとより世界中の人々の日常生活に癒しと潤いを与えられるような「音セラピー」効果のある生活用品も新たに開発し、「音」を通じて皆さんに平和幸せをお届けできるような仕事を末永く続けていきたいと考えております。

 

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現代の長村鋳物師たち ~職人紹介~

金壽堂で働く職人たちを紹介します。

(1)黄地 浩(営業)

先人が積み上げた伝統と信頼 絶やさぬ一心で
平成25年1月に急に先代が倒れて、業界のことをあまり知らないまま突然会社を引き継いだのですが、全国のお寺へご挨拶に巡ると、どこへ行っても「黄地(おうち)」の姓を名乗るだけで「ああ、金壽堂の!よう来てくださった」と、皆さん名前を憶えておられて快く迎え入れてくださることに驚きました。黄地=金壽堂の名がここまで知れ渡っていることに、先代・先々代が長年かけて築き上げてきた信頼関係、「金壽堂」という名前の偉大さを改めて知り、その重責に身が引き締まる思いです。いい加減なものをつくって後世に迷惑がかかるようなことをしてはならない。このことをいつも肝に銘じています。

めざすは世界 伝統と新感覚の融合を
慣れない会社経営に苦心しましたが、おかげさまで良いご縁をいただいて、人とのつながりの中から発展の足がかりが少しずつ出来てきました。常に5年、10年先のことを考えて、いろんな人の話に耳を傾けながら、社会のため、人のためになる仕事を一所懸命やっていきたいと思っています。ここで満足せず、「世界」も視野に。

私は、もともと仏像を彫る職人なんです。当初は仏師の仕事に未練もありましたが、ある人に「あんたが造っているその釣鐘が仏様(仏像)や」と言われてハッとしました。あらゆるものに、仏性は宿るもの。そういう思いで梵鐘づくりに邁進しようと考えるようになりました。

最近、先々代の「黄地佐平」の銘が入った梵鐘と出逢う機会があったのですが、その意匠や造形は細部までオリジナリティにあふれていて、先々代の職人としての思想や気概が鮮やかに感じ取れたんです。ですから私も、先人から引き継いだ材質や技法へのこだわりを大切にしつつ、意匠的な部分は時代に合わせて工夫していきたい、と考えています。引き型を変えたり、線の太さを変えたり、撞き座や龍などの絵柄の木型も自分の特技を活かして新しいデザインのものを考案し、自ら彫っています。

「音」への追求 妥協なく
除夜の鐘に間に合わせるため、年の瀬も押し迫った日に山口県の某寺へ梵鐘を納品しに行ったことがあるのですが、鐘楼への取り付けが完了し、鳴らした初鐘の音が夕闇迫る山々にこだました時、その音色に「夕焼け小焼け」の歌に出てくるような山里の営みの情景が重なって、「ええ仕事をしたなぁ」としみじみ感じたことが印象に残っています。

音は、ウソをつきません。原料の調合具合や純度、表面の模様や内面のざらつき具合、本体や縁の微妙な厚み、撞木の種類などによって、鐘の音は変わってきます。自己満足にならないよう、鐘を納めたお寺にできるだけ通って話を聞くようにしていますが、やはり人の評価を聞くととても勉強になります。

「鋳物の里」としてコミュニティづくりの拠点に
ここ、長町にとって、やはり「鋳物」は特別な存在。かつては、在所のほとんどの人が鋳物業に関わり、生業・雇用の中心的存在だったといいます。この金壽堂も今は少人数での経営がやっとですが、いずれは若い人をもっと雇って後継者を育成し、この地を「鋳物の里」として発展させたいと思っています。

工場に隣接して、先代夫婦が住んでいた屋敷が空き家になっているのですが、ここを地域のコミュニティスペースとして開放したり、鋳物ギャラリーやカフェを運営したりして、公共的に活用できれば、と考えています。

(2)奥田正治(工場長)

先代から受け継いだワザ 自分の五感と勘が頼り
梵鐘づくりに従事して10年になります。その前は主に銅像づくりをしていました。同じ鋳物でも、銅像と梵鐘では作業工程や必要な技術がぜんぜん違う。この職場では、ほぼすべての工程を同じ人がやるので、すべてを把握していないと商品づくりはできない。先代の親方から技を盗んでひと通り仕事を覚えるのに2年はかかりました。

梵鐘づくりで特に難しいのは、外型表面の文字や装飾です。梵鐘に書かれている文字は、砂と土で練り上げて整形し、4等分に輪切りした外型の表面がまだ乾き切らないうちに、1文字ずつ手作業で「字打ち」をしていくのですが、打つ時の手加減は、その時々の型の感触を五感で確かめながら、自分の勘を頼りにやっていくしかありません。

また、天女や龍などの文様は、外型に四角く穴を空けて、そこへ、あらかじめ木製の原型から起こした型を「いけ込む」のですが、その際、少しでも間に空気が入ってしまうと、金属を型に流し込む際、熱で空気が膨張して型がふくれて変形してしまうんです。空気が入らないようにいけ込む作業も、やはり自分の勘が頼りです。

つくり手の気持ちが、音に現れる
これまでに、100個以上の梵鐘を手がけてきました。完成した鐘をお寺に納める際、必ずその場で鳴らして音を聞くんです。自分がつくった鐘の音が、その地域に響いてゆく。それを聞いた住職さんやその場にいる地域の人たちが「ええ音や」と言ってくださるのが、何より嬉しいですね。つくり手の思いや気持ちが、そのまま完成した鐘の音になって現れるように感じます。だから、いつも真剣勝負。一つひとつが、一生の思い出です。

梵鐘づくりは奥が深くて面白い。でも、体力勝負の仕事。現役で仕事ができるのは、73歳ぐらいまでが限界かな(笑)。

(3)中澤すみ子

こんなやりがい 他にない
近所に住んでいるご縁でここに働きに来させてもらって、もう30年ぐらいになります。今やっているのは、梵鐘の土型を十分乾燥させるために、型の周囲に「こんにゃく」という土レンガを積み上げながら、その隙間に熾した松炭を詰めていく作業です。夏は暑いですけど、全体を均一に熱しないといけないので、やる時は集中して一気にやってしまわないと。「こんにゃく」がくずれたりケガをしないように、工夫して段取りよく作業することを心がけています。ほかにも、炭割りや、鋳込んで割った後の土型の土をまた型の材料として再利用できるよう拾って選別したり、梵鐘のイボの型をとったり、裏方が多いですけど大事な仕事をいろいろさせてもらっています。

長い間続けられた一番の理由は、家が近かったからかな。たいへんなこともあるけど、奥が深くて面白い仕事です。こんなやりがいは、他ではなかなか得られないと思います。ぜひ、若い人に来てもらって、仕事を伝えていきたいですね。

(4)西堀 淳

早く一人前に ずっと続けたい
以前は繊維会社に勤めていましたが、社長の浩さんからお声をかけていただいて、やりがいのありそうな仕事だと思い、今はこちらのお世話になっています。

まだまだ見習い中で、難しい仕事はやらせてもらえません。今は言われたことをこなすので精一杯ですが、工場長の技をそばで見させてもらいながら、ひとつひとつ、しっかり自分のものにしていきたいと思っています。日々、勉強ですね。

梵鐘づくりは体力のいる力仕事が多くてたいへんですが、その分やりがいもあるし、誇りに思える仕事です。会社が続く限り、この仕事を一生続けていきたいと思っています。

 
 
 

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金壽堂の沿革

1379(康暦元年)長村鋳物師の祖・道欽が東漸寺(滋賀県愛荘町東円堂)の梵鐘を鋳造
江戸時代現在本社がある地にて梵鐘づくりを創業
1931(大正6年)梵鐘の鋳造技術を活かし、銑鉄鋳物の鋳造も始める
第2次大戦中全国の梵鐘の大半が金属供出される
1949(昭和24年)8月株式会社金壽堂鋳造所と改組
鋳造工場・加工工場として最新様式の設備を増強
昭和30年頃~国民の生活様式の変化などにより鋳物業を廃業する製造所が増える
1976(昭和51年)1月社名を株式会社金壽堂と改称
組織の充実・機械設備の近代化を行う
2016(平成28年)10月 徐 小鏞が代表取締役に就任

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長村鋳物師について

『滋賀文化財教室シリーズNo.170』(1997年11月20日発行,森容子著)をもとに編纂
■「長村鋳物師(おさむらのいもじ)」とは
 滋賀県の東部、湖東平野のほぼ中央に位置する東近江市長(おさ)町は、昔から鋳物師(いもじ)の村としてよく知られ、かつてはほとんどの家が何らかの形で鋳物と関わって暮らしてきました。
 長村以外にも、滋賀県(近江国)には、鋳物に関係する遺跡や地名・伝承が数多くあります。これらは、古代から県内各地に鋳物師がいたことを示しています。

 しかし、工業技術の近代化とともに鋳物師は姿を消し、今では、県内で伝統的鋳造技術を伝えるのは金壽堂ただひとつとなってしまい、梵鐘をつくり続けている伝統鋳物業者は全国でも数軒しか残っていない状況です。
■「長村鋳物師」の歴史

 長村鋳物師の歴史は古く、一番最初にその名前がでてくるのは、滋賀県愛荘町東円堂にある東漸寺(とうぜんじ)の梵鐘です。この梵鐘は、もともと同じ愛荘町の豊満(とよみつ)神社の鐘として作られたもので、「康暦元年(※1379) 鋳師大工長村 道欽(どうきん)」の名が刻まれていることから、少なくとも南北朝時代には長村に鋳物師がいたと考えられています。

 この梵鐘以外に中世の長村鋳物師の活動を記した資料は、今のところ見つかっていませんが、江戸時代になると、たくさんの長村鋳物師の名前が社寺の梵鐘、喚鐘(かんしょう)、鰐口(わにぐち)、古文書にみられるようになります。江戸時代の長村では、梵鐘、祭鉦(まつりかね)、鰐口などの他に、日常で使う鍋釜(なべかま)鋤先(すきさき)なども作っていました。なかでも、長村製の鍋釜は質が良く、「長村鍋(おさむらなべ)」の名で湖東一帯に知られていました。長村鋳物師に歌い継がれている「たたら節」は、長村鋳物師特有のたたら(大型の足踏み式ふいご)を踏むときに歌った歌ですが、その歌詞の中に、

 色は黒ても 長村鍋は 長村鍋は
 白いお米を ままにする


という一節があり、長村鍋が特産品であったことがわかります。

 明治時代になっても、明治13年(1880)に刊行された『滋賀県物産誌』の長村の項には「鍋釜鋳物師」とあり、そのころは梵鐘よりも鍋釜や鋤先の生産が主流だったことがわかります。しかし、昭和の初め頃から、軽くて安いアルミ製品が普及しはじめ、その後の飛躍的な生活様式の変化、農業の機械化などによって、重い鉄鍋や鉄釜、昔の風呂釜、鋤先は需要がなくなり、生産されなくなりました。昭和30年頃を境に、鋳物業を廃業したり工業鋳物に転業する人も多くなり、今では、伝統的な鋳物の技法を伝える鋳物師は、長村はもとより県内でも金壽堂一軒だけとなってしまったのです。
■長村の梵鐘づくり

 日本の梵鐘にとって最大の悲劇は、戦争による供出でした。それ以前にも梵鐘が戦いの巻き添えとなることはありましたが、第2次世界大戦中の金属供出は壊滅的打撃となったのでです。故坪井良平氏の功績などにより、慶長以前の梵鐘は供出から外されることもありましたが、「長村鋳物師」の銘のある梵鐘のほとんどが江戸時代以降のものであったため、供出は免れませんでした。戦争中、滋賀県内から供出された梵鐘は香川県の港に集められ、その数は全国で3番目の量であったことが、坪井氏の著書に記されています。

 昭和4年に刊行された『近江愛知郡誌』に挙げられている各社寺の梵鐘等の記録によると、江戸時代に長村鋳物師が作った梵鐘、喚鐘の類はおよそ70口を数え、その活動圏は、旧彦根藩領を主に愛知郡・神崎郡・蒲生郡であったことがわかります。「御得意」を記した古文書もあり、それぞれの鋳物師ごとに、得意先や販売先はほぼ決まっていたようです。また、「出吹(でぶき)」といって、他所へ出かけていって製品を作ることもよく行われていました。これについては、寛政(1790)の頃の他国への出吹きを禁じた取り決めが残っています。つまり、長村鋳物師は比較的狭い地域を活動の場としながら、梵鐘を作り続けてきたと考えられます。

 前述のように、鉄製品は社会の需要がなくなり注文もなくなりましたが、もともと注文生産品である梵鐘は、注文がなくなるということはありませんでした。しかも皮肉なことに、供出でなくした梵鐘を復活させたいという人々の願いによって戦後梵鐘生産は活気づき、長村鋳物師の伝統的な梵鐘鋳造は継続され、その技法は今日に残ることになったのです。
■長村の梵鐘製造技法
●梵鐘の製造技法について、詳しくはこちらのページをご覧ください。

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会社へのアクセス


  • JR琵琶湖線の近江八幡駅・彦根駅・米原駅、またはJR草津線の貴生川駅にて「近江鉄道」に乗り換え、「八日市駅」にて降車ください。
  • 名神高速道路をご利用の方は、「八日市IC」で降りてください。ICから工場まで約4キロメートルです。





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